下諏訪宿

 

本陣岩波家

中山道で随一と言われた名庭園。下諏訪宿は甲州街道と中山道が交わる交通の要衝で、江戸時代は全国各地の大名が参勤交代の道中に本陣岩波家に宿泊した。

貴賓室に当たる奥座敷から眺める庭園は屏風(びょうぶ)絵のように美しい。庭園は全国各地から600個の銘石を集め、10年をかけて造られ、江戸中期に現在の形になった。

歴史と人

調和の極み

庭屋一如(ていおくいちにょ)

庭と建物はまるで一体であるかのような美しいバランスで設計されている。

庭に面した廊下には柱がない。奥座敷から庭園を眺める人の視界を遮らないための配慮で、屋外にある1本の柱で大きな屋根を支えている。

樹齢数百年のヤマグルマの木の根っこが地表をはうように飛び石まで伸び、積み重なった時の流れを感じさせる。

自然の地形を利用した庭園は秋になると、ドウダンツツジが赤く色づく一方で、サツキは緑のままでコントラストが美しい。

奥座敷(玉座の間)から眺める庭は、まるで屏風絵のようといわれる

奥座敷(玉座の間)から眺める庭は、まるで屏風絵のようといわれる

地面にはった木の根が時の流れを感じさせる

地面にはった木の根が時の流れを感じさせる

関札

下諏訪宿は中山道で最大の宿場で、本陣岩波家には多くの大名の関札が残されている。

関札は同じ札が2枚あり、1枚は本陣の門前に、もう1枚は宿場の入り口に掲げられた。

関札は大名自身が持ち込むため、書体も札の大きさも異なる。

下諏訪宿は甲州街道の終点で、中山道に合流する交通の要衝。しかも中山道で唯一温泉に入れる宿場町でもあった。

このため九州から東北まで全国各地の大名が参勤交代の道中に下諏訪で宿を求め、数千人もの家臣団で宿場が貸し切りになることもあったという。

全国のお殿様がこの庭を眺めて、温泉に入り、旅の疲れを癒やしたのだろう。

「尾張大納言殿宿」と書かれた札もある

「尾張大納言殿宿」と書かれた札もある

町中の水路を流れる水の音に諏訪大社の森から聞こえてくる鳥の声が和す。心弾むハーモニーに、中山道の69の宿場風景を描いた歌川広重が、ここ下諏訪宿ではあえて旅籠(はたご)での食事場面を取り上げたのは、湧き出す温泉と川魚などのごちそうが多くの旅人を元気づける特別な場所だったからだろうと確信する。

参勤交代の大名らが宿泊した本陣の28代当主・岩波太佐衛門尚宏さん(53)に屋敷を案内してもらった。1861年、14代将軍徳川家茂に嫁ぐため、中山道を経由して京から江戸へ下った皇女和宮をもてなした茶器、「年貢半減」を掲げ東進中の68年、下諏訪宿で捕縛され、処刑された赤報隊隊長・相楽総三が携えていた短刀が展示されている。

「本物展示」が当主の流儀らしいが、激動の歴史を物語る展示品の数々に、頭がクラクラしてきた。明治天皇がくつろいだ「玉座の間」から庭を眺め、気持ちを落ち着かせる。

諏訪大社下社秋宮の南を流れる承知川から引いた水をたたえた泉水石組に護岸石など全国から集めた600もの銘石が用いられた池泉鑑賞式庭園。苔(こけ)の上を動き回る木漏れ日が、心に染みてくる。庭の景観を存分に楽しめるよう軒を支える柱を少なく、細くした配慮などはまさに「庭屋一如」だ。

東(あずま)下りの道中「落ちて行く身と知りながら紅葉(もみじ)ばの人なつかしくこがれこそすれ」と詠んだとされる和宮が、下諏訪に入ったのが、旧暦11月5日。京風の極みともいえるこの庭をどんな思いで眺めたのだろう。

「外国からのお客さまで、2時間もここから動かない方がいらっしゃいました」。しばし思いに沈んでいると、当主が笑顔で語りかけてきた。時を忘れて座り込む客の姿に、言い知れぬ手応えを感じたと言う。

父の死によって、17歳で太佐衛門を継ぐことを余儀なくされた当主は、父に代わって休日を定めず年中、本陣の公開を続けた母を回想し「亡くなる前に県宝指定(2023年)を報告できてよかった」と語る。庭屋一如にもう一つ、「人」を加えた場所が下諏訪にあった。

  文・中山敬三

写真 動画・浅井慶、板津亮兵

アクセス

長野県下諏訪町横町3492イの1

【公共交通】
JR
中央本線「下諏訪駅」から徒歩10分

【自家用車】
長野自動車道「岡谷IC」から15分
中央自動車道「諏訪IC」から25分

【開館時間】
午前10時~午後4時

【休館日】
水曜日

【入館料】
一般800円、中学生以下400円

【問い合わせ】
0266-28-7055