八勝館

名古屋を代表する料亭の庭。もともとは明治時代に建てられた材木商の別荘で、名古屋東部の丘陵地の自然を生かして、当時造られた庭園が現在も残っている。

かつては庭園の一番高い所から見ると、伊勢、志摩、尾張、信濃、三河、遠江など八州の勝(すぐ)れた景色が見えたことから、八勝館と命名された。庭園は通常、料亭利用者のみ見学できる。

老桜

名建築に春の声

御幸の間

数寄屋造りの建物で、高床式となっており、縁側に月見台を設けるなど、京都・桂離宮をほうふつとさせる。

南側は池に面しており、東側から庭を眺めると、ちょうど目線の高さに苔庭が広がるなど、庭との一体感を演出する造りとなっている。

1950(昭和25)年に愛知県で初めて国民体育大会が開かれた際に、昭和天皇と香淳皇后の宿泊所として建てられた。

設計は庭園史に造詣の深い建築家・堀口捨己(ほりぐちすてみ)が担当した。日本建築学会賞を受賞し、国の重要文化財に指定されている。

昭和天皇と香淳皇后が宿泊した御幸(みゆき)の間

昭和天皇と香淳皇后が宿泊した御幸(みゆき)の間

「今度、八勝館の庭を拝見することになった」と周囲に告げると、料理が美味だったこと、茶会がきわめて盛大だったこと、魯山人の器などの調度品が素晴らしかったことなど、即座に反応があった。それぞれ誇らしげな表情を浮かべたのが、おかしかった。

作家の山口瞳が随筆や紀行文でよく八勝館について書いている。「草競馬流浪記」(1984年刊行)の「名古屋土古(どんこ)の砂嵐」編では、今回宿泊を断られた理由について「秋たけなわ、茶の湯の会、謡曲の会、句会、月見の会などもあって手が廻(まわ)らぬからである。こういうところが好きだ」と記し、深い愛着を示している。

文人墨客が愛した庭を「御幸の間」から眺める。八勝館は明治時代に材木商の別荘として建てられ、料理旅館をへて料亭になった。数寄屋造りの御幸の間は50年、愛知県で国民体育大会が開催された際、昭和天皇と香淳皇后が宿泊するためにつくられた。八勝館の客だった「電力の鬼」松永安左エ門が「一流の建築家に任せるべきだ」と助言し、堀口捨己が設計することになったという逸話が残る。

丸い下地窓(したじまど)や床下の細い柱は、皇室ゆかりの桂離宮へのオマージュだろう。桂離宮では案内人から「月見の邪魔にならないよう灯籠が低くなっています」と説明を受けたが、この庭の灯籠にも、同じ配慮がなされているのだろうか。

59年の伊勢湾台風で傷ついたが復活、枝ぶりにいっそう趣が増したと思われる桜の木が眼前に迫ってくる。床の高さが、庭との一体感を醸し出す、建築家の意図に気付かされる。

歌人でもあった堀口は、66年の宮中の歌会始の儀で、召人を務めている。

「梢よりこずゑにわたるかぜの音(と)は心にかよふ春のこゑかな」

お題の「声」に寄せて彼が詠んだ歌。終戦の日に「すめろぎの宣(のら)せることのあまりにもことの外(ほか)なり泣かざらめやも」と詠んだ堀口に20年の後、どんな声が聞こえたのだろう。庭を吹き渡る風の音に一瞬、彼のゆらぎがたどれるような気がした。

  文・中山敬三

写真 動画・畦地巧輝、浅井慶、板津亮兵

アクセス

名古屋市昭和区広路町

【公共交通】
名古屋市営地下鉄鶴舞線・名城線・名港線「八事」駅
4番出口から徒歩3分
名古屋市営地下鉄桜通線「桜山」駅
3番出口からタクシーで10分

【備考】
庭園は通常、料亭の利用者のみ見学可。現在、宿泊の営業はしていない。

【問い合わせ】
052-831-1585